エコシステム、という何か

みなさんこんにちは。Infrabbitです。

ちょっとクライアント(組んでるSIerさんじゃなくてその向こうの発注元)の頭のおかしい案件に関わっていて、いやお前それでエンジニア名乗っちゃダメだろ。とかナチュラルに思うことが増えました。

さて、そんな近況は良いのですが。その中で、世の大多数の職業エンジニア的呼ばれ方をしてしまう、なんかエンジニアであることに熱意を感じない人々、というのは一定数いらっしゃる、というか結構いらっしゃる、というか、わりと大多数がそんな感じ、という気がしないでもないのですが、そういう方々にとって「エコシステム」ってなんだと思っているんでしょう、という話です。

エコシステム。まあそりゃあそこらでIT系の案件紐解けば飾り文字のごとく踊っています。エコシステムとして、とかエコシステムを利用してとか。じゃあそのエコシステムっていったいなんだ、と言われて、ちゃんと答えられるでしょうか。

私は結構難しい、と思います。

これがエコシステムだ!みたいな典型があるわけでもなく、じゃあ自分の作ったものはエコシステムとして機能するのかとか言われたらそんなん使ってもらえて初めて、じゃないですか。エコシステムであることを目指す、ことはできても、エコシステムを作ろう、と言って作れるわけもなし。

じゃあエコシステムっていったいなんだ。ってなったとき、さらっと調べてよく言われるのは携帯キャリアがエコシステムのプラットフォーマーですよ、という話。だからGAFAってつえーんだぜ、とかね。

まあ、言わんとすることはわかります。プラットフォーム単体では大したことができないけど、プラットフォームが普及することでそこにサービスをリリースするサードパーティが増え、それがさらにプラットフォームの拡大を招き、さらに参入サードパーティが増え、という好循環を生み出す生態系。エコシステム。

いや、これは十分わかりますし、別に携帯に限った話じゃなくてOSなんかもそうなんでインフラ屋にとってみると「なんで今更エコシステムとか名前つけてるの、この現象に?」みたいな話ではありますよね。

なので、私的にはこれは「エコシステム」という言葉が表現したかった表現型の一つ、でしかないと思うのです。

エコシステム、とは究極的には「車輪の再発明」の徹底的な排除であろうと思いますし、そこから生まれる効率化と高コストパフォーマンスによるある種の「協業」体制を「クラウド上で」実現すること、だと思うんですよ。

そして、これをなすのにもっとも重要だったものが、徹底的にシステム間をAPIで疎結合につなぐ、という「思想」であった、と思います。

そう考えた場合、OSや携帯ってプロプライエタリとして閉塞させ、システムコールでハードウェアべったりな密結合も作れる、なんて状況ってじゃあエコシステムですか、って言われると間違ってないけど完成系だとも思えないんです。

 

例えばある会社さんが画期的なサービスを生み出したとします。もちろん、同じ領域を追従する他社さんも現れることでしょう。

でも、同じ土俵で戦えないならば、「誰かの作ったその画期的サービス」を借り受けて、より新しい形のサービスを生み出す、ということに注力するほうが面白い、と考える方もいるでしょうね。

そして、そこから生み出された「画期的サービスを使った、異なるアイデアで別の切り口によって生み出された新しいサービス」が、さらに別の何かの発想の発端になるかもしれません。

このような、あたかも「生命の進化」に近しい現象をもたらすことを、エコシステムという言葉は目的にしている気がします。「生態系」ではない気がするんですよね、個人的には…。

クラウド上に生じるサービス進化、Evolution on Cloud(ofじゃなくて)とかのほうがマッチしてる気がしないでもない。

 

例えば現代だとAI分野がこれを起こしていますし、ちょっと前ならXやTikTokなんかのSNSと呼ばれたフィールドが起こした事象でもあります。まあ、どう転んでもプラットフォーマーが勝ち組なのは揺らがないんですが。GAFAはもうどうしようもない気がしますね。GAFAそのものを食える、進化した表現型が生まれないことには崩れる気がしません。

クラウドプラットフォームはノイマン型が崩れない限り難しそうですし、ウェアラブルはとびぬけた発想で大きなシンギュラリティを生み出す可能性がありそうにも思え、AppleとGoogleは崩せる可能性がミリ以下の単位で残っているかもしれませんが、まあ着想を得た時点で札束でぶん殴られると思うので基本無理でしょうね。シンギュラリティになり得る着想を得て、さらにGAFA出し抜く、なんてどんな曲芸だろうか、と現時点では思ってしまいますしね。

 

さて、こっからはエコシステムとは関係なくせっかくなんでAIの話でも。AIがディストピアやユートピアを作り出す、って声高に叫んでいる人は結構いて、まあそういう人に疑問があるんですよね。

AIに世界任せちゃったのは「人間の仕業」でしょう。結局人間の選択の結末でしかないんですよ。AIのせいじゃなくてAIにそれを許した誰かのせいですよwwwww なんか生活が苦しいのは政府が悪い、と同じこと言ってんですよね。選んだの僕らじゃん。その責任は有権者にこそあって、政府が全く悪くないとは言わないけど、選んだ責任は常に自分にあるんだよ。

 

そもそもAI作ってた人たちに、「人間の仕事を奪ってやろう」なんて目的はないんですよ。彼らが目指したのは「コンピューターによる人間の言葉や図表の数値化」なんです。AIとはその表現型に過ぎないし、そもそもこの数値化領域は認知科学と呼ばれる領域であり、正直たかが数億~数十億程度のニューラルネットワークで人間を模した気になってる研究者なんかどう考えても皆無です。

人間の脳ですら、1000億を数えるニューロンによって構成されていて、それを模する、というのがニューラルネットワークの最終到達点です。

そこに、「AI」という形の表現型を与え、コンピューターに「今数値化された情報から推定できる結果」を出力させられるようにしただけのもので、それを「思考」と呼ぶのか、というのは諸説あるかもしれませんが、私はそれを「思考」とは呼べない気がします。

でも、この「出力」はある意味でチューリングテストをクリア、あるいはそれに近い状況を作り得る、ということによって、「人間」をだまくらかすには十分な偽知性を有した、とも言えます。

そもそもチューリングテストを知性と見做す、というのが本質的に間違いだとも思いますし、あれは「人間をだませるか」というのが目的ですし、AIを利用する「人間」がそれを「機械」と認識できないならばそれは「人間が応じているのと何ら表現型としての差異がない」ことを示す、というものです。

つまり何が言いたいかよくわからなくなってきたんですが、AIのやることに創造性などない!とか言われるのはまあその通りですよ。だってそんなもん人間にもないもん。

「創造性」なんてシロモノはですね、ある種のチューリングテストでしかないんです。自分の創作物に対して、「他人が」そこに創造性を共感するから創造性、と言える。人間って徹頭徹尾、単体で生存できないし単体でアイデンティティもなにも確立できない、究極的に群れなきゃどうにもならない社会性生命なんですよ。だから、自分の価値は他人が決めるし、創造したものも他人が定めちゃうし、他人がいなきゃ自分が何なのかすらわからなくなる。

そういう生き物だと思います。

なんで、創造性なんてもんは人間にもないですよ。1000億のニューロンシナプスの電気信号によって生み出される何か、に「意味」を見出しているのはただそれが社会性生物である僕らという存在によって、あたかも「存在するかのように」勘違いしているだけのこと。

だからこんなもんただの創造性に関するチューリングテストですよ。20%しかだませないなら創造性なんかないけど、90%だませるならあるんです。つか創造性のチューリングテストなんて、人間が人間に対してやったら大半は創造性無し、って判定されるだろうと思うよ。たとえそれがだます側が芸術家であったとしてもね。

そして、AIに騙されて世界を任せちゃったらディストピアになっちゃいました、とかそれもうだまされる側も悪いでしょwwww まあ人間だませる位まで育てるほうも悪いけどさぁ。

で、こういうこと書くと著作権がーとか怒られるんですが、そもそもそれとこれ別の話。著作物を保護してAIの学習に使っちゃだめよっていうのは「創造性があるから」というよりただ「法律でそう決めたから」のほうに近いと思います。で、むしろそっちで「人間だましちゃダメよ」とか定義すべきことなんじゃないかね、技術に歯止めかけるんじゃなくて。とは思います。

まあ、過去の著作物からまったく切り離されて人は何かを生み出せるかっていうとむつかしいでしょうから、そもそもAIに学習すんな、ってのもただ精度が高い学習をするから人間の過去の著作物参照ほどファジーじゃない学習をするのは模倣やトレースに近い、という主張でしょう。

じゃあそこにどれだけのブレ幅があれば人間の模倣やトレースと創造の違いになってくるのか、ってのは立派な研究テーマとして成り立つでしょうしね。

まあ専門じゃないですから知りませんけど、なんかAIガーって騒いでいる人の大半も専門家じゃない気がするんですけどね。

 

エコシステム、としてはAIをどう使ってどう新しいものを生み出すか、に主眼を置くのです。その結果が世界の破滅だろうがディストピアの入り口だろうが、オッペンハイマーは気にしなかったんだから僕らも気にしない。使うやつが正しく使え。というか技術に歯止めかけようとする人はいったい何なのかは理解ができない。金子さんはなぜ死ななければならなかったのか。技術に歯止めをかけようとする人が、僕には殺人者にしか見えない。

ノイマンもオッペンハイマーもアインシュタインもパスカルもニュートンもガリレオも彼らにとっては罪人なのかなぁ…。

技術そのものに善悪なんかない、という至極当たり前の話がなぜかAI界隈だと正しく機能しないときが多い気もするんだよなぁ。法整備が追い付かない、っていう話なら理解できるんですけどねぇ…。